【南河内探訪】板持地区(富田林市) ・「おちょやん」のモデルとなった浪花千恵子ゆかりの地

注目の板持

世界的な新型コロナウイルス感染症の流行もあり、何かと暗いニュースの多い印象の2020年(令和2年)も11月に入り、(一部で)注目されている大阪府富田林市の板持(いたもち)地区のご紹介です。

長い歴史を持つ板持地区ですが、最近ではNHK2020年度後期連続テレビ小説(朝ドラ)「おちょやん」の主人公のモデルとなった浪花千栄子(なにわちえこ)さんの出生地ということで知名度がアップしているようです。「おちょやん」や浪花千栄子さんについては富田林市のウェブサイトなどでも特集されています。

板持地区(富田林市)
板持地区(富田林市)

というわけで、今回は浪花千恵子さんと「おちょやん」、そして関連する板持地区について簡単にまとめてみました。写真は主に2020年11月撮影。なお、当記事トップの画像は佐備川に架かる高橋から二上山を望む角度で撮影したもので、左が西板持町、右が東板持町となっています。

浪花千栄子

浪花千栄子さんは、1907年(明治40年)に当時の大阪府南河内郡大伴村大字板持(現在の大阪府富田林市東板持町)で生まれました。本名は南口(なんこう)キクノ。小学校(現在の市立大伴小学校?)にもあまり行けず、8歳の時に道頓堀の仕出し弁当屋に女中奉公に出されますが、それまでは富田林で過ごされたようです。

板持地区(富田林市)
市立大伴小学校

その後、様々な苦労の末に18歳ころから舞台に立ち、戦後には松竹新喜劇の看板女優として活躍。その後は映画をはじめ、ラジオやテレビのドラマでも活躍され1973年(昭和48年)に66歳で亡くなりました。

板持地区(富田林市)
富田林市役所のパネル展

昭和の初期から後期(1920年代後半から1970年代前半)にかけて活動された浪花千恵子さんでしたが、人気が出だしたのは40歳頃からという“遅咲き”の女優でした。しかし、戦後日本が復興を遂げて行く激動の時代の中にあって、お茶の間に欠かすことのできない存在であり、「大阪のお母さん」として愛される名女優だったといわれています。大塚製薬の「オロナイン軟膏」のCMは特に有名ですが、これは本名の「南口キクノ」と「軟膏効くの」を掛け合わせたとも言われています。今でもオロナインの琺瑯(ホーロー)看板が街中に残っている所もあるとか。

現在、富田林市役所ロビーに「浪花千恵子さんパネル展」のコーナーが設置されています(ホーロー看板もあり)。

●富田林市公式サイト 「富田林市出身、昭和の名女優 浪花千栄子さん」 →https://www.city.tondabayashi.lg.jp/site/70th/49116.html


おちょやん

「おちょやん」は2020年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」の先品で第103作となります。当初は2020年9月28日から放送開始予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の流行により、前作「エール」ともども収録の一時休止・遅延が発生したことから放送開始予定日が11月30日となりました。

あらすじとしては...「ヒロインは明治の末に大阪南河内の貧しい家で生まれ竹井千代(たけい   ちよ)。小学校も満足に通わせてもらえなった千代は9歳で道頓堀の芝居茶屋へ女中奉公に出されます。その奉公先で華やかな芝居の世界を知った千代は、女優を志し芝居の世界に飛び込んでいく...」といった感じです。「おちょやん」とは、茶屋や料亭などで働く「小さい女中さん」を表す「おちょぼさん」の大阪ことばだそうです。

主人公の竹井千代を演じるのは杉咲花さん、作は「半沢直樹」や「下町ロケット」などの脚本で知られる八津弘幸氏となっています。

なお、竹井千代の生家は実際に富田林市内某所にセットを組んで撮影されました(現在は撤去済み)。また、ヒロインのモデルとなった浪花千栄子さんは誕生から8歳までと、第二次世界大戦中の疎開先として富田林に住んでいたそうなので、ドラマで富田林がどれくらい登場するのかも気になります。

板持について

現在、富田林市で「板持」と付くのは西板持町、東板持町、東板持がありますが、古くは「板茂」とも書いていました。石川右岸のこの辺りには古代から人々が暮らしていたようで、古墳時代の西板持遺跡や板持古墳群が確認されています。奈良時代の719年(養老3年)には、この辺りに住んでいたと考えられる板持氏(板茂氏)が姓(かばね)を史(ふひと)から連(むらじ)に改めていますが、地名として記録にあるのは南北朝時代頃からのようです。

板持地区(富田林市)
東板持の街区表示板等

もともと板持(板茂)村という一つの村だったようですが、江戸時代には石川の支流である佐備川を境に東西二つに分かれています。しかも、今の西板持町は河内国錦部郡板持村、東板持町や東板持は河内国石川郡東板持村と、属する郡も異なっていました。1889年(明治22年)に錦部郡板持村は周辺の村々と合併して彼方(おちかた)村に、石川郡東板持村も同様に大伴村の一部となっています。1896年(明治29年)に錦部郡や石川郡が廃止され同じ南河内郡所属になり、1942年(昭和17年)に彼方村、大伴村は富田林町、新堂村、喜志村、川西村・錦郡村と合併し富田林町の一部となり、同時に彼方村と大伴村の大字板持はそれぞれ西板持、東板持に改称されました。

なお、富田林町が富田林市となったのは1950年(昭和25年)で、今年4月1日に市制施行70周年を迎えました。
 

東板持

「おちょやん」の主人公のモデルとなった浪花千恵子さんが生まれたのが、佐備川の東側、東板持です。

板持地区(富田林市)
東板持集会所

佐備川のほとりにある東板持集会所には地車(だんじり)小屋も併設。

板持地区(富田林市)
厳島橋

西板持と東板持の間の佐備川に架かる橋は、下流(北)から鍵田橋、厳島橋、高橋、清水橋があり、さらにその上流(南)に国道309号の板持橋が架けられています。

板持地区(富田林市)
宇奈田川の向こうの東板持

佐備川の支流である宇奈田川(うなだがわ)は東板持の東部を流れています。

板持地区(富田林市)
宇奈田川(左が河南町方面)

宇奈田川から少し東に行くと南河内郡河南町の寛弘寺地区です。

板持地区(富田林市)
高橋から寿美ヶ丘を望む

高橋から真っ直ぐ南東に進み坂を上ると、戦後に出来た住宅街、寿美ヶ丘が広がっています。寿美ヶ丘の南には板持城跡があります。

板持地区(富田林市)
厳島神社の丘

寿美ヶ丘への坂を上る途中で左を見ると、板持厳島神社の鎮座する丘が見えますが、神社は木々に覆われて見えません。寿美ヶ丘の住宅地は厳島神社の裏山を切り開いて造られたようです。

板持地区(富田林市)
板持厳島神社

東板持の産土神である板持厳島神社は1907年(明治40年)に現在の南河内郡千早赤阪村水分にある建水分神社(たけみくまりじんじゃ)に合祀されました。こちらは旧社地に復社したものと思われます。

板持地区(富田林市)
板持十三重塔

厳島神社から直線距離で130mほど北東の墓地の中には鎌倉時代後期に造られたと見られる石塔、板持十三重塔が建っています。こちらは重要美術品(旧法)に認定されています。

●板持十三重塔と板持厳島神社について詳しくは →【街歩き】板持十三重塔 板持厳島神社(富田林市) ・東板持にある鎌倉時代作と考えられる石塔と鎮守社

板持地区(富田林市)
寿美ヶ丘への坂の下の隧道

同じ東板持でも、もともとの東板持集落と寿美ヶ丘との高低差は結構あります。

板持地区(富田林市)
東板持の街並み

寿美ヶ丘北側のもともとの東板持集落にはかつての面影を残す街並みも見られます。

板持地区(富田林市)
歴史を感じさせる風景

西板持

一方、南河内を南から北に流れる石川や富田林の中心地だった寺内町(じないまち)に近い西板持は平地が多い印象です。

板持地区(富田林市)
板茂神社

西板持集落の北東部にあるのが西板持の産土神である板茂神社です。こちらも厳島神社同様、1907年に千早赤阪村の建水分神社に合祀され廃社となりましたが1950年(昭和25年)に再建されました。


板茂神社の前の道を南に300mほど行くと、西側に浄土真宗本願寺派の西照山専念寺があります。

さらに専念寺の50mほど南、道路の東側にあるのが融通念仏宗の大念寺です。

板持地区(富田林市)
道標(北東側)

西板持の集落内を富田林からの観心寺道が北から南に貫いています。消防団第8分団詰所から50mほど東の交差点にはその道標が残されています。

こちら側には「北ふしい寺(藤井寺)」、「東いせよしの(伊勢・吉野)」と彫られています。

板持地区(富田林市)
道標(南西側)

こちら側には「南くわん心寺五条(観心寺・五条)」、「西さ山堺(狭山・堺)」、「文化十五年若連中」とあります。文化15年は西暦1818年に当ります。

板持地区(富田林市)
スーパーセンタートライアル富田林店

西板持の国道309号沿いには、今年夏に「スーパーセンタートライアル 富田林店」がオープンし、昨年開業した南側(彼方地区)の「クロスモール富田林」、さらに現在建設中のマクドナルドなどと合わせて新たな商業エリアが形成されつつあります。

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